宮城晴美さんの苦悩 母の遺言(上)
沖縄県民斯ク戦ヘリのTakashiさんのところで紹介されていましたが、全文を紹介したくてTakashiさんに頂きました。
沖縄タイムス 1995年(平成7年) 6月22日 木曜日
母の遺言 (上)
証言の独り歩きに苦悩
手記の書き直し託される
宮城 晴美
その年、母は座間味島の「集団自決者」の名簿を取り出し、一人ひとりの屋号、亡くなった場所、使用した"武器"、遺体を収容したときの状況など、これから自分が話すことのすべて記録するよう、娘の私に指示してきた。
座間味島の地図を広け、「自決者」のマップをつくりながら、母は知りうる限りの情報を私に提供し、そして一冊のノートを託したのである。
元号は変わっても・・・
それから間もなく、元気よく一週間の旅行に出かけたものの、母は帰ってきてから体の不調を訴えるようになり、入院後、とうとう永遠に帰らぬ人となってしまった。
一九九〇年(平成二年)十二月六日であった。
母の死後、遺品を整理しているなかで、日記帳の中から一枚のメモ用紙を見つけた。前年の一月七日、つまり昭和天皇が亡くなったその日に書かれたものであった。
「静かに更けて行く昭和の時代も、後二十分で終わりを告げようとしている。
本当に激動の時代であった。たとえ元号は変わっても、戦争への思いは変わらないであろう。
新元号は『平成』、どんな時代になるのだろう。子や孫のために、平和な世の中になってほしい」
戦後、座間味島の「集団自決」の語りべとして、戦前の皇民化教育と「集団自決」のかかわりを、戦争の聞き取り調整のため島を訪れた無数の人たちに説いてきた母。
それだけに、私にも言い続けてきた「昭和=戦争="集団自決"」という、戦前の天皇制をベースに繰り広げられた悲惨な戦争の図式を、母は「昭和」の時代の終わりとともに、何らかのかたちで、自身の"思い"として留めたかったのではないだろうか。
"事実"を綴ったノート
そして、私に托された一冊のノート。それは字数にして四百字詰め原稿用紙の約百枚におよぶもので、母の戦争体験を日を追って詳しく綴ったものであった。
母は「いずれ時機を見計らって発表しなさい。でも、これはあくまでも個人の体験なので発表するときには、誤解がないよう、客観的な時代背景を加えるように」と言葉を添えて手渡したのである。
ただ、母はこれまでに座間味島における自分の戦争体験を、宮城初枝の実名で二度発表している。
まず、六三年(昭和三十八年)発行の『家の光』四月号に、体験実話の懸賞で入選した作品「沖縄戦最後の日」が掲載されたこと。それから五年後の六八年に発行された『悲劇の座間味島−沖縄敗戦秘録』に「血ぬられた座間味島」と題して体験手記を載せたことである。
ではなぜ、すでに発表した手記をあらためて書き直す必要があったのかということになるが、じつは、母にとっては"不本意"な内容がこれまでの手記に含まれていたからである。
「"不本意"な内容」、それこそが「集団自決」の隊長命令説の根拠となったものであった。
自責の念にかられる
とくに、『悲劇の座間味島』に記載された「住民は男女をとわず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」と梅澤部隊長から命令が出されたというくだりが、『沖縄県史10 沖縄戦記録』をはじめとして、多くの書籍や記録のなかで使われるようになり、その部分だけが切り取られて独り歩きをしだしたことに母の苦悩があった。
あげくは、その隊長命令説を覆そうと躍起になるあまり、曽野綾子氏に代表される、「自決者」を崇高な犠牲的精神の持ち主としてまつりあげる人々が出てきたとなると、母の気持ちが穏やかであるはずがなかった。
そしてもう一つの"不本意な理由、それは、自分の証言で「梅澤部隊長」個人を、戦後、社会的に葬ってしまったという自責の念であった。
これか最も大きい理由であったのかもしれない。
(沖縄女性史研究家)
◇みやぎ・はるみ 一九四九年 座間味生まれ。雑誌編集者を経て、フリーライターになる。
集団自決を中心とした戦争体験を追いながら、女性史とのかかわりを調査。
九〇年から、那覇市で女性史編さん事業にたずさわる。
沖縄タイムス 1995年(平成7年) 6月22日 木曜日
母の遺言 (上)
証言の独り歩きに苦悩
手記の書き直し託される
宮城 晴美
その年、母は座間味島の「集団自決者」の名簿を取り出し、一人ひとりの屋号、亡くなった場所、使用した"武器"、遺体を収容したときの状況など、これから自分が話すことのすべて記録するよう、娘の私に指示してきた。
座間味島の地図を広け、「自決者」のマップをつくりながら、母は知りうる限りの情報を私に提供し、そして一冊のノートを託したのである。
元号は変わっても・・・
それから間もなく、元気よく一週間の旅行に出かけたものの、母は帰ってきてから体の不調を訴えるようになり、入院後、とうとう永遠に帰らぬ人となってしまった。
一九九〇年(平成二年)十二月六日であった。
母の死後、遺品を整理しているなかで、日記帳の中から一枚のメモ用紙を見つけた。前年の一月七日、つまり昭和天皇が亡くなったその日に書かれたものであった。
「静かに更けて行く昭和の時代も、後二十分で終わりを告げようとしている。
本当に激動の時代であった。たとえ元号は変わっても、戦争への思いは変わらないであろう。
新元号は『平成』、どんな時代になるのだろう。子や孫のために、平和な世の中になってほしい」
戦後、座間味島の「集団自決」の語りべとして、戦前の皇民化教育と「集団自決」のかかわりを、戦争の聞き取り調整のため島を訪れた無数の人たちに説いてきた母。
それだけに、私にも言い続けてきた「昭和=戦争="集団自決"」という、戦前の天皇制をベースに繰り広げられた悲惨な戦争の図式を、母は「昭和」の時代の終わりとともに、何らかのかたちで、自身の"思い"として留めたかったのではないだろうか。
"事実"を綴ったノート
そして、私に托された一冊のノート。それは字数にして四百字詰め原稿用紙の約百枚におよぶもので、母の戦争体験を日を追って詳しく綴ったものであった。
母は「いずれ時機を見計らって発表しなさい。でも、これはあくまでも個人の体験なので発表するときには、誤解がないよう、客観的な時代背景を加えるように」と言葉を添えて手渡したのである。
ただ、母はこれまでに座間味島における自分の戦争体験を、宮城初枝の実名で二度発表している。
まず、六三年(昭和三十八年)発行の『家の光』四月号に、体験実話の懸賞で入選した作品「沖縄戦最後の日」が掲載されたこと。それから五年後の六八年に発行された『悲劇の座間味島−沖縄敗戦秘録』に「血ぬられた座間味島」と題して体験手記を載せたことである。
ではなぜ、すでに発表した手記をあらためて書き直す必要があったのかということになるが、じつは、母にとっては"不本意"な内容がこれまでの手記に含まれていたからである。
「"不本意"な内容」、それこそが「集団自決」の隊長命令説の根拠となったものであった。
自責の念にかられる
とくに、『悲劇の座間味島』に記載された「住民は男女をとわず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」と梅澤部隊長から命令が出されたというくだりが、『沖縄県史10 沖縄戦記録』をはじめとして、多くの書籍や記録のなかで使われるようになり、その部分だけが切り取られて独り歩きをしだしたことに母の苦悩があった。
あげくは、その隊長命令説を覆そうと躍起になるあまり、曽野綾子氏に代表される、「自決者」を崇高な犠牲的精神の持ち主としてまつりあげる人々が出てきたとなると、母の気持ちが穏やかであるはずがなかった。
そしてもう一つの"不本意な理由、それは、自分の証言で「梅澤部隊長」個人を、戦後、社会的に葬ってしまったという自責の念であった。
これか最も大きい理由であったのかもしれない。
(沖縄女性史研究家)
◇みやぎ・はるみ 一九四九年 座間味生まれ。雑誌編集者を経て、フリーライターになる。
集団自決を中心とした戦争体験を追いながら、女性史とのかかわりを調査。
九〇年から、那覇市で女性史編さん事業にたずさわる。
by hiro0815x | 2008-07-08 12:39