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竹島は日本の領土


アジアの真実「金大中事件で韓国が日本に逆に謝罪要求を検討」
のコメント欄(名無しさんのコメント)から全文引用です。

〜〜〜〜〜〜〜ここから〜〜〜〜〜〜〜

http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/inspectors-map-of-ulleungdo-shows.html
竹島に関する英語のまじめなブログです。 ここにリンクしました
ここ2-3日韓国の「ネチズン」がこのブログを知って、どっちのものだ思う、投票で、韓国が上回ってしまいました。
竹島が日本に属すると思う方はJapanをクリックしてください。
他のスレやサイト、ブログの方にもコピペしていただければ幸いです。


〜〜〜〜〜〜〜ここまで〜〜〜〜〜

リンク先の右の段に

Do Liancourt Rocks
(Dokdo/Takeshima) belong to Korea or
Japan?


というところがあります。
よろしければ
Japanへ投票をお願いします。
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  by hiro0815x | 2007-10-27 19:35

金大中事件:韓国、世論対応に苦慮

もう韓国に関わるのはやめましょう

金大中事件:韓国、世論対応に苦慮金大中事件:韓国、世論対応に苦慮

 【ソウル堀山明子】韓国青瓦台(大統領官邸)の千皓宣(チョンホソン)報道官は24日、73年の金大中(キムデジュン)氏拉致事件を韓国中央情報部(KCIA)の組織的犯行と断定した韓国国家情報院の真相調査委員会報告書について「社会的な議論が起きて、青瓦台が立場表明する問題があれば明らかにする」と述べ、日本政府への抗議は韓国国内世論を見守りながら、慎重に検討する姿勢を明らかにした。金大中氏本人や市民団体から政治決着を図った日本政府に対する責任論が浮上しており、主権侵害に対する謝罪には慎重になっている。

 千報道官は警察庁や国防省でも過去の事件の真相調査が進んでいることに触れ、「各機関がそれぞれの判断でやっていることで、発表内容にいちいち青瓦台が論評するのは望ましくない」と述べた。政府諮問機関の判断に対し、韓国政府が措置を講じる必要はないという二重基準といえる。

 日韓の外交当局は、報告書発表時の対応について、(1)発表と同時に柳明桓(ユミョンファン)駐日大使が説明し日本政府は抗議(2)月内に本国訓令を受け、柳大使が高村正彦外相に対し公式謝罪--という「2段階方式」で主権侵害問題を実務的に処理するシナリオを模索していた。主権侵害の事実を認めれば国際法上、公式謝罪は不可避との共通認識が外交当局間にはあった。

 ところが、民主化運動活動家らが加わる調査委には「日本政府も事件後の隠ぺいに加担した責任があり、韓国政府が謝罪する必要はない」(調査委メンバー)との認識が強い。報告書には日本政府への遺憾表明も盛り込まれたため、謝罪を促す圧力にはならなかった。

 公式に謝罪するシナリオは発表前夜まで模索されたが、最終的には金前大統領が事件の幕引きを望んでいないことが確認され、青瓦台は謝罪に慎重になったとみられる。

 金前大統領側が24日発表した論評は、日韓両政府の責任を指摘。金前大統領の救援運動をしてきた「拉致事件真相糾明のための市民の会」(代表・韓勝憲(ハンスンホン)弁護士)は「真相を隠ぺいした日本政府は、被害者と韓国国民に謝罪すべきだ」と訴える声明を出しており、韓国世論が日本政府への謝罪論に向かう雰囲気は醸成されていない。

毎日新聞 2007年10月25日 3時00分


なんでこの件に関して日本が韓国に謝罪しなきゃならないんですかね。
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  by hiro0815x | 2007-10-26 16:49

君が代について

ジュルジュサンドのブログ「君が代は素晴らしい国歌ですね」より、引用です。

〜〜〜〜〜ここから〜〜〜〜〜〜

実は、この国歌“君が代”について、私は伊勢雅臣さんのサイトを読むまで、中途半端な知識しかなく、読んだあと、成る程、国歌に相応しいと、改めて思った次第です。
このサイトは纏め方が簡潔かつ要領を得て、削除したり付け加える言葉も少なく、素晴らしいですね。大半引用になりますが、君が代について :


国歌に関して、広島県の高校1年生400人を対象にしたアンケート調査が行われた。
・ 小学校から高校1年まで「君が代」の歌詞を習ったことがありますか?
  ある:13%     ない:87%
・ 「君が代」から何をイメージしますか?
   暗い:25%     戦争・侵略:23%
   わからない:17%  怖い:13%
歌詞を習った事がないから「わからない」、とか、メロディーだけ聞いて「暗い」と感ずるのは、理解できる。しかし、歌詞を習った事もないのに、「戦争・侵略」をイメージしたり、「怖い」と思うのは、どういう事なのだろう。それはたとえば、何も知らない子供達にただ「鬼畜米英」と刷り込み教育をするのとあまり変わらないのではないか?

君が代に賛成するにしろ、反対するにしろ、基本的な事実は踏まえておきたい。
まず”さざれ石”とはどんなものか?
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで「さざれ石の巌となりて」の「さざれ石」は「小さい石」、「巌」、は「岩+穂」の意で「高く突き出た大きな石」と広辞苑にある。穂の形で、そびえ立つ巨岩というイメージであろう。しかし小さな石が、そんな巨岩に成長するなどというのは、非科学的ではないのか?

実はさざれ石とは学名「石灰質角礫岩(かくれきがん)」 と言い、伊吹山のふもとで産出し、岐阜県の天然記念物に指定されている。石灰石が雨水で溶けると、粘着力の強い乳状液となる。 この乳状液が2億年以上にわたって地下に浸透し、小石を互いに凝集させ巨岩に成長させる。この巨岩が河川の浸食作用で地表に露出したのがさざれ石である。

(さざれ石の写真は、以下の水屋神社ホームページ参照。関連・ お奨めサイトにさらに詳しい「国歌『君が代』発祥の地」へのリンクがある。)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mizunoya/index.htm

文徳天皇(在位850―858年)の皇子惟喬親皇に仕えた藤原朝臣石位左衛門は、この地でさざれ石を発見し、「これは珍しい石、目出度い石である」と見たまま、感じたままを、詠んで奉った歌が

  わが君は干代に八千代にさざれ石の
いわをとなリて苔のむすまで
の一首である。都では「見かけぬめずらしい石であリ、かつまた秀歌である」として、この歌は「古今集」(巻七賀の歌)に採録された。石位左衛門は名のある人ではなかったので「詠み人知らず」とされた。

冒頭の高校生へのアンケートでは、「戦争・侵略」、「怖い」 という回答があったが、この点はどうなのか。平安時代に既に歌われていた君が代は、鎌倉時代以降になって、 神事や宴席の最後に歌われる祝歌として一般に広がり、江戸時代に至ると物語、御伽草子などの文芸、浄瑠璃、謡曲などの芸能にも登場するようになった。

このように人々に歌われるうちに、いつしか、より語感の澄んだ「君が代は」と変わり、平安後期から鎌倉初期に広く歌われていた和歌・漢詩を集めた「和漢朗詠集」には、現在の形で登場している。江戸初期には、隆達節(りゅうたつぶし)という小唄がはやるが、その中で君が代は恋の小唄として唄われたようだ。明治2年、薩摩藩の砲兵隊長・大山巌(後の元帥、元老)らが、歌の選定にあたって、平素愛唱していた君が代を選んだ。君が代は薩摩藩では祝賀の歌として用いられ、また薩摩琵琶の「蓬莱山」にも、取り入れられている。

江戸の小唄から薩摩琵琶まで、全国津々浦々で親しまれていたことが分かる。国歌として急速に定着したのも、こうした基盤があったからであろう。いずれにしろ、君が代は、長命を祈る歌、お祝いの歌、さらには、恋の歌として、千年以上も日本人に親しまれ続けてきたのである。いずれも相手に対する「まごころ」を贈るものであり、戦争とか侵略とかとはまったく無縁の、平和そのものの歌であった。

本当に戦闘的な国歌とは、たとえば、次のようなものである。

悪魔のごとく敵は血に飢えたり
立て国民 いざ、ほことれ
進め、進め、あだなす敵を葬うむらん(フランス国歌、一部)

起て 奴隷となるな
血と肉もて築かん
よき国 われらが危機迫りぬ
今こそ戦うときはきぬ(中国国歌、一部)

弾丸降る いくさの庭に
頭上高く ひるがえる
堂々たる 星条旗よ(アメリカ国歌、一部)

 これらの国歌に比較して専門家は君が代を次のように評価する。

作曲家・黛敏郎氏:フランスや中国など、革命から生まれた国は、激しい、荒々しい、戦闘的な歌が多い。それに対し、君が代は平和を賛美し、その平和の中で日本の将来が永久に続くよう、「君」すなわち天皇になぞらえて、祈っている。平和的な戦闘的な歌でないことを、強調し、大切にしたい。

作曲家・團伊玖磨氏:「君が代」は、不思議な曲である。そして国歌として最適な曲である。国歌としての必要条件は短い事、 エスニック(民族的)である事、好戦的でない事。この三条件である。その意味で、イギリス国歌、ドイツ国歌、そして日本の「君が代」。この三つが国歌の中の白眉であると思う。アメリカやフランスの国歌などは長すぎて他人迷惑である。

暗いかどうかは、個人の感覚の問題だから正解はない。しかし君が代の曲について、次のようなことは事実として踏まえておくべきだろう。君が代の最初のメロディーは外国人が作曲したのだが、日本語の調子に合わず、不評だった。そこで、明治9年に宮内庁雅楽課の林守広が作曲したのが、今日の君が代である。林守広の家系は、聖徳太子の頃から、代々、雅楽を伝えてきた。 聖徳太子が604年に秦河勝(はたのかわかつ)に命じて、音楽を専門的に学ぶ楽家を作らせた、そのうちの一つが林家である。 この古代からの雅楽の伝統に則り、さらに西洋音楽の要素も取り入れて君が代は作曲された。歌詞だけでなく、曲までも千年以上の伝統に根ざしているのである。明治26年、ドイツにおける世界国家コンクールで、君が代は一等になった。めったに外国の事を誉めないイギリス人が、君が代を「天上の音楽」と激賞したと伝えられている。

現代の専門家の評価も聞いてみよう。 作曲家・堀内敬三:曲は荘重さもあり、やわらかさもある名曲だと思う。・・・雅楽調といっても、昔の宮廷人も民衆もともに歌った和歌の朗吟風のスタイルをとりいれ、民衆の中にしみこんだ音律が取り入れられている。

作曲家・内藤孝敏氏:一番新しい調査でも63%が「君が代」を支持している。国民の63%が支持する歌なんて、なかなか作れないですよ。しかも、百年以上にわたって歌い継がれてきたということは、「君が代」のメロディーには我々日本人の本質に根ざした何かがあるということなんです。
君が代は古臭い? これも感覚の問題だから正解はないが、「古臭い」という事はどういうことか、考えてみよう?
日教組が新国歌制定を目指して、昭和26年に国民歌を募集し、次の「緑の山河」が選ばれた。

  戦争(たたかい)超えて たちあがる みどりの山河 
雲はれて いまよみがえる 民族の わかい血潮に
たぎるもの 自由の翼 空を往く 世紀の朝に栄えあれ

千年以上の歴史を持つ「君が代」に比べれば、わずか50年足らず前の新しい歌である。しかし今時の若者に言わせたら、「若い血潮」、「世紀の朝」など、どうしようもなく古臭く、「ダサイ」の一言だろう。 時代とともに過ぎ去っていく流行歌と、長い年月を通じて人々に愛され、時代を超える生命力を与えられた古典音楽とは、別ものなのだ。モーツアルトは古い。しかし古臭いとは言えない。君が代も同様に時代を超えた生命力を得た歌である。

現代的な感覚に合わないからと言って、新しい国歌を作っても、 二、三十年もしたら、また次世代の感覚に合わなくなってしまう。国歌は、流行歌のように次々と作り替えるべきものではない。時代を超えて、代々の国民を結ぶものだ。

「緑の山河」は日教組の先生方が、新しい国歌にしようと一生懸命、生徒達に教えたそうであるが、今では知る人もない。それは時代を超える生命力を与えられなかった。日教組が君が代に反対しながらも、代わりの歌を提案できないという苦しい立場にあるのも、こうした失敗があるからだろう。

君が代は天皇制賛美?
君が代の意味は、「天皇を日本国および日本国民統合の象徴とするわが国の末永い繁栄と平和を祈念したもの」という政府統一見解が最近出された。憲法第一条の精神に合致した解釈である。

「天皇制賛美=国民主権の否定」という論法は、王権と民権が激しい対立抗争を続けてきた西洋諸国の歴史を、そのまま我が国に当てはめようとしたものだ。埼玉大学の長谷川三千子教授は、次のように指摘する。

たとへば、水戸学の第一人者である藤田東湖は、日本の歴史をふりかへつて、そこに見出される第一の特色は代々の天皇が民を「おほみたから(大御宝)」として大切にしてこられたといふことであると言ふ。

しかも、この国体思想は、国民に忘れられることはあつても、代々の天皇御自身に忘れられたことは一度もなかった。たとへばそれをもつともよく反映してゐるのが、昭和天皇の終戦の御製四首として伝へられてゐるみうたである。例えばその一首はかうよまれてゐる--「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」。

すなはち、民をおほみたからとして大切にするといふ日本の政治道徳の伝統は、つねに、そのために自らの命を危険にさらすことをもいとはぬ、といふ代々の天皇の御決意によって支へられ、引き継がれてきたのである。
「おおみたから」と「一つ屋根」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog074.html

民を大御宝として大切にする政治道徳の伝統があり、それを常に体現する皇室があった。日本列島に太古の昔から様々な民族や人種が流入しつつも、長い間に平和的に一つの国家としてまとまり、発展してきたのは、この政治道徳が国家の統合力として働いてきたからであろう。

「君が代」とは、このような政治道徳を体現する皇室を中核として、平和的にまとまり、発展してきた我が国の姿を示している。 大きさも種類も異なる様々な小石が結ばれあって、長い時間をかけて見上げるような巨岩に成長した「さざれ石」は、見事にこの国柄を象徴していると言えよう。


〜〜〜〜〜〜〜引用終わり〜〜〜〜〜〜〜

私は君が代が日本の国歌としてふさわしいと考えているので、これを読ませていただいてとてもためになりました。

本家のジュルジュサンドさんの文章を読まれる事をお勧めします。




11.2追記


「誇り高き日本人でありたい」の「出て行けば  厭でたまらぬ  日本をば」に諸外国の国歌の歌詞(訳)があります。

「象の背中」を書かれている「yashiki」さんがコメントされていますが、改めて君が代は良い国歌と思います。
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  by hiro0815x | 2007-10-25 22:10

朝日新聞への抗議

○○○さん、新聞に載っていることがすべて正しいと思うのは危険です。
「大学受験に引用されることが一番多いのは朝日新聞です」と自画自賛している新聞社ですらこんな有様です。

沖縄戦集団自決の虚偽をばらまく朝日の偏向を許すな!“日本軍関与”は朝日が目論む第二の「慰安婦強制連行」

朝日新聞は沖縄戦で起きた住民の集団自決を巡り、意図的なすり替え報道を行っている。
9月29日、宜野湾市で開かれた集会決議の「集団自決に軍が関与したことはあきらか」の部
分を、あたかも歴史の真実と言い張り、教科書検定の見直し諮るのが当然とのキャンペーン
を繰り返している。
朝日のねつ造報道をこのまま放置すれば、「日本軍の住民虐殺」というとんでもない歴史偽造
が青少年の精神に注入される。朝日は「慰安婦強制連行」と同じ手法を駆使して、日本人の民
族的自立を阻害すると共に、その誇りを根底から破壊している。



集団自決に「軍の命令があった」と思い込んでいる沖縄県民にぜひ見てほしいです。
朝日新聞だけでなく沖縄タイムス、琉球新報の社員も他人事と思わずしっかり考えてほしいです。
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  by hiro0815x | 2007-10-20 15:25

「真実」より「うわさ」

意思決定には「真実」より「うわさ」が強く影響=研究より引用

[ロンドン 15日 ロイター] 独マックスプランク研究所の進化生物学者ラルフ・ゾンマーフェルト氏らの研究チームは、うわさは真実よりも強い影響力を持っているとの研究結果を報告した。意思決定の際にもうわさが重要な役割を果たしているという。

 学術誌「ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンス」に15日掲載された論文で同研究チームは「うわさには情報を操作する強い力が潜在する」と指摘している。

 研究では、学生をゲームに参加させる方法で調査を実施。参加者らは、事前に与えられたお金をほかの人に渡すというゲームを何回か繰り返し、1回ごとにほかのメンバーの行動をメモし、それを全員が見られるようにした。

 その結果、参加者は「意地汚い人」や「守銭奴」と書かれた人に少ない金額を渡す傾向がある一方、「寛大な人」や「社交的な人」と表現された人には多くを渡す傾向があったという。

 ゾンマーフェルト氏は、参加者がうわさを元に意思決定を行っているとし、こういった情報が意思決定の際に強力な道具に成り得ることが示されたと述べている。



教科書検定問題(沖縄集団自決)を考えると
真実よりもマスコミの声の暴力が世論を操っています。
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  by hiro0815x | 2007-10-16 18:54

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)さんの証言

狼魔人日記「緊急!生き残り警察官の証言  パンドラの箱は開かれた」より

安里喜順氏の証言1 (前慶良間人)

2007-10-10 23:27:19

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

當間駐在所
 昭和16年4月に沖縄県巡査を拝命して、第77期生として巡査教習所に入った。同期生には豊崎孟善、田場進、上地永好、現県会議員の砂川武雄等がおり、昭和16年8月30日に卒業して那覇署に配置になった。
 那覇署で最初に勤務したのが東町交番であった。次は今のバスターミナルの近くにあった旭町交番、そして昭和17年に小禄村の當間巡査駐在所に配置になった。當間巡査駐在所には昭和20年1月15日まで勤務した。
 昭和19年の10・10空襲のときは當間巡査駐在所勤務で、その日の朝は本署に出勤していた。その時、「飛行機の練習にしてはどうも変だな」と思っていたら、やはり空襲だったので、自転車で急いで駐在所に戻った。
 10・10空襲で那覇は全部焼かれた。駐在所の近くには飛行場があって空襲されることは間違いないと思ったので家内と子供たちは中城に疎開させていた。
 那覇飛行場を建設するため山根部隊や建設隊などが来ていたが、私が駐在所に赴任した頃には飛行場建設は終わり防空壕堀などをしていた。
 その頃の駐在所勤務は戸口調査とか本署からの下命事項の調査報告や思想調査、警防団の訓練、そして定期招集で本署へ行くこと等であった。10・10空襲があってからは、一般住民の方達が夜警に出ていた。

渡嘉敷駐在所
 昭和20年1月15日付けで渡嘉敷巡査駐在所へ配置換えの辞令が出た。
 その時配置換えの辞令を受け取ったか、それとも電話で命令を受けたのかよく覚えていない。
 慶良間列島には、座間味村と渡嘉敷村があり、私が赴任した所は渡嘉敷村の字渡嘉敷であった。渡嘉敷には阿波連、それから前島の小さい離島もあり国民学校もあった。渡嘉敷村には駐在所は一カ所だけであった。
 15日に配置換えの命令を受けたが、渡嘉敷に赴任したのは21日頃であった。その頃は戦闘状態であり、それに渡嘉敷島は秘密地帯になっており、歩兵部隊か、特攻部隊が駐屯しており渡嘉敷島に行くことはできるが島からは簡単に出られない状況であった。島へはポンポン船で行くが、これも毎日は出ない。それに準備等もあったので、赴任するまで少し時間がかかった。
 駐在所は警察の建物ではなくて民家を借りていたので、単身赴任した。
 その頃は本島間の電話は架設されてないので、本島と渡嘉敷島の間を往来していたポンポン船で、書類を送ったり本署からの書類を受け取ったりしていた。戦争状態になってからはポンポン船も運行できなくなったので、本署との通信連絡はほとんど途絶えた。その後は自分一人で色々考えて判断して、警察業務を遂行した。
渡嘉敷島は小さい離島なので、戦争になったらまず心配されるのは食料であった。そこで食糧増産をすることになり、私も田植えの手伝いをした。

御真影奉還
 渡嘉敷島に赴任して間もない2月頃と思うが、国民学校の御真影を本島に奉還して行ったことがあった。
 これは県庁から命令が出たと思うが、「御真影を本島の一カ所に奉還しなさい」と言う事があったので、渡嘉敷国民学校の校長と、高等科の先生2人と私の4人で御真影をお守りしてポンポン船で本島に渡った。
 本島ではこの頃はバスなどは運行していなかったので、歩いたり拾い車をしたりして国頭の羽地村源河にあった国民学校にお届けした。
 帰りに中城に立ち寄って、家族にあった。その時次男坊が私にまとわり付いて「一緒に付いて行く」と言って泣いていたが、戦争が終わって帰ってみると、その子だけが戦争で亡くなっていた。今考えると何かこの世の別れを知っていたのかと思ったりする。その後、那覇署で任務終了したことを上司に報告した。


安里喜順氏の証言2 (前慶良間人)

2007-10-10 23:30:05

渡嘉敷島へ渡るため那覇港からポンポン船に乗って出航したところを、米軍の飛行機の爆撃を受けた。これで一巻の終わりかと思ったが、爆撃をかわし、渡嘉敷港に無事たどり着くことができた。

鈴木部隊
 渡嘉敷島に赴任したとき島には、鈴木部隊と言って歩兵の戦闘部隊が配置されていた。その頃はいろいろ軍を相手にしなければならない仕事も多かった。
 私は、前任地の當間駐在で飛行場の兵隊とはよく会っていたので、赴任してすぐ鈴木少佐のところに赴任あいさつに行った。
 鈴木少佐は私の前任地のこともすでに知っておられて、物資の少ない時であったが魚の缶詰などを出して歓迎してくれた。鈴木部隊の隊長は民家を借り、兵隊は国民学校にいた。陣地などは良く分からなかったが、歩哨に立つ所があったぐらいのもので、大砲などは持っていなかったと思う。
 鈴木部隊とはよくお付き合いしていたが、本島の兵力が足りないとのことで、鈴木部隊は二月頃、本島へ転進していった。島尻あたりの警備に就いたと思う。

赤松部隊
 渡嘉敷島には鈴木部隊の外に、赤松大尉の部隊が配置されていた。その部隊は秘密部隊と言う事であったので、赴任した当初は赤松大尉には会っていない。
 私が赴任した時には、鈴木隊長の部隊と赤松隊長の部隊の2つの部隊があった。鈴木部隊が転進してからは赤松部隊だけになった。
 赤松部隊は水上突撃隊で、人力で押し出すことができる小型船に爆弾を積んで、敵艦に体当たりする秘密部隊であったので陣地などは見ていないが、海岸の岸壁を掘ってそこに舟を隠していたようだ。
 同部隊には、首里出身の知念少尉がおられた。私と一緒に下宿していた宇久先生も首里出身で知念少尉とは知り合いであったので、知念少尉は時々下宿に訪ねてきていた。米軍が渡嘉敷島に上陸してからは、私は赤松部隊とは頻繁に行き来していたが、それ以前は赤松隊長との面識はなかった。

塩屋警察署へ赴任できず
 昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。
 艦砲が始まったので私は、島の高い所に登って島尻の方を見た。渡嘉敷島はそれまで相当な被害にあっていたが、いくらアメリカと連合軍に物量があると言ってもただ言葉だけの天文学的数字を言っているものとばかり思っていた。ポンポン艦砲弾が撃ち込まれる中を自分は警察官だから隠れるわけにはいかないので身を伏せながら方々の状況を見てびっくりした。
 沖縄本島は島尻から北谷あたりまで見渡す限り敵艦船が取り囲んでいたので、これはちょっとやそっとの物量ではないと思った。

赤松隊長に面会
 艦砲が激しくなって渡嘉敷の山は焼けてシイジャー(しいの木)だけが残っていた。
 阿嘉島にも水上特攻隊が駐屯していた。
 その頃渡嘉敷島には招集された防衛隊員がいたが、小さい島なので招集されても家族のことが心配になり、自宅に帰って家族の面倒を見ながらやっていた。
 防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 赤松部隊の隊長は民家を借りていたが、昼は海岸の方に行っていた。その海岸は秘密地帯になっていたらしく、私は行ったことはなかった。


安里喜順氏の証言3 (前慶良間人)

2007-10-10 23:31:34

赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談
 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。部落から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。部落を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時部落の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。

渡嘉敷島の玉砕
 私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた。
 空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので、部落を出発する時からもう平常心ではない。
 集まった防衛隊員達が、「もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔よく自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。
 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は、「生きて虜囚の辱めを受けず」だったので、言っても聞かなかった。
 そこで「じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡をとってからその返事を待って、それからでも遅くないのではないか」と言って部隊長の所へ伝令を出した。
 だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。
 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていたと思う。
 その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。
 玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩けるものは一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。
 その時友軍に、「危険だから向こうに行け」と言われて、元の場所に帰ってきた。
 その頃は全員の頭がボーとして何も考える事ができず、死のうが生きようがどうでもいいと言う気持ちで近くの広場で寝ていた。
 その時自決するチャンスを失ってしまってそのままになった住民も多かった。

避難生活
 あの広場で玉砕してから2、3日は飲まず食わずでいたと思う。それから段々と集まってきた場所が、あの避難小屋を作ってあった恩納河原であった。
 それからは避難小屋での生活が始まった。山の畑を耕したり、芋を作ったり、ソテツで澱粉を作った


安里喜順氏の証言4 (前慶良間人)

2007-10-10 23:33:27

りして食いつないでいたが、小さい離島なので、持っていた食料も底を尽き、山のソテツも取り尽くしてしまい、食料を探すのに必死だった。その頃船が沈められて、海岸にはよくメリケン粉や缶詰などが流れ着いていたので、それを拾って食べたこともあった。
 渡嘉敷港の近くに友軍の食糧を積んであったので、私が赤松隊長に相談して防衛隊員などから力のある人を集め、その食糧を取ってきて友軍と民間で分けたこともあった。
 赤松隊長は、「私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きて下さい」と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。
 米軍が上陸してからは、本島との連絡は全くできないので、私は赤松隊に行って情報を取りそれを住民に伝えていた。
 七、八月頃になったら米軍からビラがばら撒かれた。それには「もう戦争は終わったから山から降りてきなさい」と書いてあった。
 渡嘉敷島の住民の中にも、伊江島の住民の捕虜から情報を聞いて早く投降した人たちもいた。
 そのとき私も軍と一緒に投降した。

(昭和63年2月8日採話)


狼魔人日記へ前慶良間人さんからこのようなコメントが書き込まれていました。

この事に関して狼魔人さんは次のようにコメントされている。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる「証言者」の言葉に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏の名を報じるマスコミは少ない。

だが、安里氏の証言は地元マスコミでは嘘つき扱いされている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。



「軍命令がなかった事にされようとしている」と騒いでいる県民大会主催者、マスコミはこのような声を「なかった事に」しようとしているのではないだろうか?

孫の代まで(それ以降も)語り継いで欲しいのは「大きな波にのまれずに真実を語る事(勇気)」だとおもいます。

今のマスコミは面白おかしく大きな波をさらに大きくしている事が非常に多いとおもいます。


狼魔人さんも貴重な情報としてエントリーされていましたので微力ながら私も記事にさせていただきました。
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  by hiro0815x | 2007-10-12 12:30

死ぬ死ぬ詐欺

先日から2ちゃんねるで「死ぬ死ぬ詐欺」ではないか?
ととりあげられていた「おさむちゃんを救う会」ここに詳細あり

募金活動って何気なく協力したりしている事が多いと思いますが、
考える必要がありますね。

ほかの募金の件でも疑惑の目で見られているところがあるそうです

確かに年収4000万円といわれるN○K職員が子供の為に1億円を募金で集める必要があるのだろうか?といわれると考えてしまいます。
年収4000万円あったら銀行が十分貸してくれそうです。

以前テレビでタダ単にお金集めだけの街角募金ってのもやっていましたね。
注意しなきゃ。
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  by hiro0815x | 2007-10-11 17:20

独り言です(下の方の動画はお薦め)

渡嘉敷島の件では戦時中に命令が下されたという証拠はありません。
戦後に「軍の命令があったように書類を改ざんした」と証言している方の事は沖縄のマスコミでは全く報道されません。
自決者300人というのも戦時中に亡くなった方すべての遺族を援助する為に自決だけでなくアメリカの砲弾に当たって亡くなった方も数えられています。
私の父も入っていた豪で実母に包丁で殺されそうになったそうです。
豪の中には住民しか居ませんでした。
軍の命令はなかったが当時は「敵に殺されるくらいなら自決する。愛する我が子の命を自らの手で絶つ」それが当たり前の考え方だったと父が言っておりました。大きめの豪の中で子供が泣き叫ぶ、泣き声が漏れて敵に見つかるのを恐れ家族以外の人には「子供を黙らせろ、静かにできないなら出て行くか、子供を殺せ」という事もあったようです。今ではそういった事実を語る人はいません。
愛する家族を殺して自分は敵と差し違えるかもしくは自殺するつもりだったのに、自分だけは生き残ってしまった。
残酷な日々を送っていると思います。軍の命令によって行った事であればどれだけ気が楽でしょうか。
沖縄戦が始まる前に有名な「バンザイクリフ」がありました。
当時の新聞はこれを大きく報道しています。
惨殺されたり強姦されたりするくらいなら自らの命を絶つ。これは当時の日本人の意識にあったでしょう。
今でも沖縄県は自殺が一番多い県です。
「苦しむくらいなら命を絶つ」というのが県民の特徴であるとしたらカナシイです。
日本軍が行った事はすべて悪い事なんでしょうか?

仲里県議会議長は「毒の入った白いおむすびを渡された」(←リンクあり)と言っていますが、当時貴重なお米にわざわざ毒を入れるでしょうか?
一休さんの「水アメの毒」とい話をご存知ですか?
おむすびを渡しているところを他に住民が見ているわけですから取り合いになる可能性があります。その為にあえて「毒が入っているよ」と言ったのかと思います。
芋すら手に入らず、ソテツを毒抜きして食べていた時代です。
貴女のおばあさんに当時どんなものを食べているか聞いてみてください。

沖縄戦では本土から沖縄を守る為に戦った方もたくさんいます。命を落とした方もたくさんいます。
私は、故郷を離れて沖縄で命を落とした方に対してとても申し感謝しています。

軍の命令があった(はず)だ、私はそういうふうに人から聞いた。という方たちの声で渦巻くこの沖縄の中で「軍の命令はなかった」と声を上げている方たちがいらっしゃいます。

県民大会11万人説が崩れてきています。4万3千人程度とする説もあります。警察発表がないのが余計に怪しさをましています。
しかも大会会場そばで関ジャニ∞のコンサートが大盛況。
大会主催者、各種団体、それに加えて県外からの参加組も多数。
実際に自由意志で参加した県民はやはり2万人程度か?
しかし報道ステーションで古舘さんは
「仮に2万人だったとしても何がいけない。人数の問題ではない」(←動画あり)
とおっしゃっていました。

それならばなぜわざわざ11万人なんて言ったんでしょうか?初めから2万人(5万人でもいいですが)で良かったわけですよ。こんなことを言うからますますマスコミが信用できなくなるんですよね。
慰安婦問題、南京問題も同じです。
また、人数が問題でないのならばなぜ「(渡嘉敷島の集団自決において)軍の命令はなかった」と明言している方の声が報道されないのでしょうか?
手榴弾が手渡されたというのが根拠ならば手榴弾が無いところでの自決はどう説明するのでしょうか?沖縄県民斯ク戦ヘリ
日本文化チャンネル桜
沖縄スペシャル
集団自決の真実!軍命令はなかった!
(←動画あり、必見です)
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  by hiro0815x | 2007-10-06 14:23

沖縄の憂鬱さんの例え話

「逆風って気持ちいい!」
を書いている「沖縄の憂鬱さん」が面白い事を書いていた
ので
勝手なんですが紹介させていただきます。
(全文引用はダメ!という事でしたらその旨を教えてください。)


仮に!の話をしてみましょう。

先日、行われた県民大会をキッカケに、市民による衆愚政治が蔓延し、左翼政党が大躍進!日本の米軍基地はすべて撤退し、親中派により、日中安保条約を締結しました。そして、米国および、NATO軍対日中の戦争になりました。


結果は、日中の惨敗!GHQが駐留し、東京裁判がおこなわれた。
この裁判で、A級戦犯として、仲井真知事、県議会議長が逮捕され、裁判にかけられた。沖縄タイムスなどは、「だまされた!沖縄県民!!」の見出しで、知事と議長を糾弾!世論も追随して「我々は、被害者だ!だまされたんだ!」と声を荒げる。


50年の歳月が流れ、歴史となりつつあるとき、沖縄タイムスは特集記事を企画!
「戦後50年、真実の扉を開け!」で、当時、県民大会に参加して頑張ろうを三唱した「元参加者」を取材、参加者曰く「あの当時は、大会に参加しなければ、非国民扱いでした。仕方なかったんです。」また別の元参加者は「物言えぬ空気のこわばりが沖縄を埋め尽くしていた」「私たちは、被害者で、戦犯の仲井真や、仲里議長にだまされていたんです!」
また、大江健三郎の息子が「父の遺したもの」を執筆して話題を呼び、当時の状況を知る人々が、続々、本をだし、「県民大会は、為政者にだまされた常識ではありえない出来事です。」 「誰が、あんな暑くて、狭いところに、好き好んでいきますか?
ありえません!」


沖縄タイムスのJ・N記者は、「当時の、陰湿な空気のこわばりを作り、県民を悲惨な戦争に駆り立てたのは誰だ?」の記事で新聞社協会から賞をいただき、満面の笑み!!
そこに、沖縄の憂鬱という一人の老人が、当時の出来事の一部始終を産経新聞紙上で、「沖縄タイムスをはじめとする、メディアの先導で、大会に参加したすべて人が戦犯だ!」と告白!「沖縄でこーいうことをいうと生きていけない!」と匿名での取材だったが、沖縄のため、意lを決し、顔写真と名前をだした。


数日後、過激派の銃弾で帰らぬ人となったことが、沖縄タイムスのベタ記事で紹介されていた。


 近未来のフィクションです。



沖縄の憂鬱さん、面白過ぎです。
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  by hiro0815x | 2007-10-04 17:16

11万人の検証

11万人説に産経新聞からも異論が出ています。

拝復 朝日新聞論説委員室さま。9月28日付夕刊の「『産経抄』の良心」と題されたコラムを拝読しました。安倍退陣について「靖国神社参拝や村山、河野談話の見直しを求め続けたあなた方の身びいきこそ、(安倍氏に)重荷だったのではないか」とご指摘いただきましたが、物は言いようだとつくづく感心致しました。

 ▼「事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく」ともご忠告をいただきましたが、その言葉はお返ししなくてはなりません。そう、先月29日に開かれた沖縄戦での住民の集団自決をめぐる教科書検定への抗議集会の報道ぶりです。

 ▼貴紙は1面で「沖縄11万人抗議」と大見出しをとり、きのうも「県民大会に11万人が参加した」と書いておられます。でも、11万人は主催者発表の数字です。記者は何の疑問も持たなかったのでしょうか。

 ▼抄子は宜野湾市内にある会場を何度か訪ねていますが、会場の面積は約2万5000平方メートル、つまり160メートル四方に過ぎません。当日の航空写真を見ると空きスペースもあり、どう数えれば11万人にもなるのでしょう。

 ▼もったいぶってすみません。関係者によると、参加者は最大で4万3000人だそうです。沖縄の警察は、主催者の反発を恐れてか真実を発表できないのです。江藤淳先生が生前、指摘された「閉された言語空間」がなお存在するようです。

 ▼主催者発表通りに集会の規模を2・5倍も誇大に報道する姿勢は、戦時中に大本営発表を垂れ流し続けた貴紙の過去とだぶってしまいます。そうそう、貴紙は論調の異なる読売、日経とネット事業や販売部門で提携されるそうですね。思い切った決断に拍手を送りますが、新聞でもネットでも事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく。 敬具


【産経抄】10月3日より全文引用させていただきました。

今日の沖縄タイムスの見出しだけを見てみると教科書検定が撤回される事は十分可能だと思わせる書き方である。
山拓、鳩山、管さんらは軍の命令があったかどうか勉強しているのだろうか?
11万人(4万3千人らしいですよ)と言われた票欲しさに、空気だけで流れているとしたら国会議員を今すぐ辞めて欲しい。国政を担当するつもりがないから無責任なコメントを言えるんですよね。

昨日、警察発表がないから考えてみたんですけど。
海浜公園の広さは160m x 160m 程度。25600㎡として7758坪
11万人収容とすると
一人当たりの広さは2327c㎡ だいたい50cm四方ですね。
一坪に14.18人。たたみ1枚に7人。
満員電車並ですね。
とても座れません。
でもテレビのニュースでは座っていましたね。

11万人が嘘だったとバレないように警察発表がないのでしょうね。
警察もグルだったというわけですか。

ミャンマーのデモが10万人ですから。これよりも多かった、すごい、県民の総意だ。といいながら
参加人数が数え間違いだったら「数は関係ない、集まった事が事実だ」と居直るのは目に見えています。
なんだかなあ。


追記
あちこちで数字の検証が始まっていますね。
アジアの真実で写真付きで紹介されています。

世界日報でも報じられています。
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  by hiro0815x | 2007-10-03 12:41

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