<   2008年 07月 ( 5 )   > この月の画像一覧

 

竹島は日本の領土です

竹島は日本固有の領土です。
韓国に配慮などいりません。
彼らは国際裁判に応じる気はないでしょう。
領土を奪われても怒らない国は日本だけです!

我が国が危ない。
領土問題は沖縄が先頭きって怒るべきである。
北方領土や竹島が人ごとだと思っているのは大間違いだ。

尖閣諸島が危ないぞ!
日本人よ危機感を持て!!
[PR]

  by hiro0815x | 2008-07-14 22:51

宮城晴美さんの苦悩 母の遺言(下)

沖縄県民斯ク戦ヘリのTakashiさんのところで紹介されていましたが、全文を紹介したくてTakashiさんに頂きました。

沖縄タイムス 1995年(平成7年) 6月24日 土曜日

「集団自決」時の社会背景

戦争は「終戦」で終わらない

島の有力者たちがやってはきたものの、いつ上陸してくるか知れない米軍を相手に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返していったが、女子青年団長であった母は、どうせ助からないのだから、死ね前に仲間たちと軍の弾薬運びの手伝いをしようと、有力者たちとは別行動をとることになった。その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って「忠魂碑前に集まるよう」呼びかけたのである。

軍国主義の象徴

伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に「自決」とか「玉砕」という言葉を聞いていない。

「忠魂碑」の名が出たことが、住民たちを「玉砕思想」へと導いたといってもいいだろう。

海を一面に見下ろせる場所に建てられた忠魂碑は、紀元二六〇〇年(昭和十五年=神武天皇の即位以来二千六百年にあたるという)を記念して、座間味村の在郷軍人会、青年団を中心に一九四二年(昭和十七年)に建立されたものである。

この忠魂碑というのは、「天皇に忠節・忠義を尽くして戦死した者の忠君愛国の魂を慰め、その事跡を顕影する」(『沖縄大百科事典』)ものといわれ、靖国神社と密接なつながりをもち、日本軍国主義思想のシンボルといわれたものであった。

太平洋戦争の開戦日(一九四一年十一月八日)を記念して毎月八日に行われた「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」の座間味島での儀式の場所であった。

これは住民の戦意高揚をはかるのが目的で、儀式の内容は、宮城遙拝「君が代」「海ゆかば」斉唱、村の有力者や在郷軍人会による、戦勝にむけての訓示などであった。

元隊長との再開

この場所に集まれというのだから、住民としてはすぐさま「自決」と結びつけざるを得なかった。結果的には、住民は激しい艦砲射撃のため、忠魂碑に集まることができず、それぞれの壕で一夜を明かしたものの、翌日、上陸した米軍を見た住民がパニックを起こして、家族同士の殺し合いが始まったのである。

それは「生きて捕虜になるよりは、死んだほうがいい」という戦陣訓と、「敵につかまると女は強姦され、男は八つ製きにして殺される」という、皇民化教育や在郷軍人会の教えによるものであった。

母とともに、梅澤隊長のもとを引き揚げた四人全員が「集団自決」で亡くなってしまったため、戦後、母が"証言台"に立たされたのもやむを得ないことであった。

一九八〇年(昭和五十五年)の暮れ、母は梅澤元隊長と那覇市内で再会した。

本土の週刊誌に梅澤隊長が自決を命令したという記事が出て以来、彼の戦後の生活が惨憺(さんたん)たるものであるということを、島を訪れた元日本兵から聞かされていた母は、せめて自分か生きているうちに、ほんとのことを伝えたいと思っていたからである。

皇民化教育の本質

その後の彼の行動については、あえてここでは触れないことにしよう。しかし、一つだけ言わせていただくとしたら、梅澤元隊長が戦後なお、軍人の体質をそのまま持ちつづけている人であることに変わりはない、ということである。

母は、私がモノ書きとして生活するようになってからは、いつも思い出したように言いつづけたことがあった。

「いまは事実を書かなくてもいい。でもウソは絶対に書いてはいけない」ということ。

そしてもう一つは、「『集団自決』を論ずるとき、誰が命令したか個人を特定することにこだわっていると皇民化教育の本質が見えなくなってしまう。当時の社会背景をしっかりおさえなさい」と。

母は「事実」を元隊長に話したことで島の人との間に軋轢(あつれき)が生じ、悩み苦しんだあけくとうとう他界してしまった。母の死を通して、戦争というのが決して「終戦」でおわるものではないことをつくづく思い知らされている。

(沖縄女性史研究家)
[PR]

  by hiro0815x | 2008-07-10 12:48

宮城晴美さんの苦悩 母の遺言(中)

沖縄県民斯ク戦ヘリのTakashiさんのところで紹介されていましたが、全文を紹介したくてTakashiさんに頂きました。

沖縄タイムス 1995年(平成7年) 6月23日 金曜日

母の遺言 (中)

切り取られた"自決命令"

「玉砕」は島民の申し出

援護法意識した「軍命」証言

宮城 晴美

母は、どうして座間味島の「集団自決」が隊長の命令だと書かなければならなかったにか、その真相について私に語りだしたのは、確か一九七七年(昭和五十二年)だったと思う。戦没者の三十三回忌、いわゆる「ウワイスーコー」と呼ばれる死者のお祝いを意味した最後の法事があると私は聞き、「島の人は何を孝えているのだろう」という気持ちから座間味島の取材に出かけたときのことである。

「援護法」とのはざまで

話は一九五六年(昭和三十一)にさかのぼった。

沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座間味村では一九五三年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから二年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。

この「援護法」は、軍人・軍属を対象に適用されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。

それを村当局は、隊長の命令で「自決」が行われており、亡くなった人は「戦闘協力者」として、遺族に年金を支払うべきであると主張したというのである。

つまり、国のシステムから考えれば、一般住民に対して「勝手に」死んだ者には補償がなされず、軍とのかかわりで死んだ者にだけ補償されるといういう論理を、住民たちは逆手にとったことになろうか。

その「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。

母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小きな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。

それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の"目"を意識せざるを得なかった。

軍と運命を共に

座間味島は一九〇一年(明治三十四)に沖縄ではじめてのカツオ漁業をスタートさせた島で、それが軌道に乗り出した明治末期から子どもたちをどんどん上級学校に送り出し、教育熱は県内でも旺盛な地域であった。それだけ、皇民化教育を受け入れる土壌が整えられていったといえるだろう。

一九四四年(昭和十九)九月、この島に日本軍か駐屯するようになったころから、住民は兵隊たちと運命を共にすることになる。

島は特攻艦艇(敵艦に体当たりするための爆弾を積んだ一人乗りのベニヤボート)の秘密基地と化し、漁のため小舟を出すにも軍の許可証を必要とした。

日本軍の駐屯で、ほとんどの家が兵隊の宿舎となり、住民たちは裏座敷に住みながらも、兵隊との交流は欠かせないものになっていた。その交流の中から「戦陣訓」を学び、そして在郷軍人(退役した地元出身の軍人)からは、中国戦線で日本軍が中国人を相手に行った残虐な仕打ちが伝えられ、敵につかまったときの惨めさが語られた。

忠魂碑の前に

一九四五年(昭和二十年)三月ニ十五日、三日前から続いた空襲に代わって、島は艦砲射撃の轟音(ごうおん)に包みこまれる。方々で火の手かあがり、住民は壕の中に隠れていても、いつ砲弾が飛び込んでくるか、ただおびえているだけであった。

そんな夜おそく、「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令が届いたのである。

伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している。有力者の一人から一緒に来るようにいわれ、意味もわからないまま、四人についていったのである。

有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最後のときがきた。

若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんばかりのショックを受けていた。

◇みやぎ・はるみ 一九四九年 座間味生まれ。雑誌編集者を経て、フリーライターになる。

集団自決を中心とした戦争体験を追いながら、女性史とのかかわりを調査。

九〇年から、那覇市で女性史編さん事業にたずさわる。
[PR]

  by hiro0815x | 2008-07-09 12:41

加藤紘一さん、、、orz

時事通信より

自民党の加藤紘一元幹事長は7日夜、日本BS放送の番組に出演し、2002年に北朝鮮から一時帰国した曽我ひとみさんら拉致被害者5人に関し、同国に戻さないとした当時の政府決定について「国家と国家の約束だから、(戻した方が)よかった。安倍(晋三前首相)さんを中心に返すべきでないとなったが、その辺が今、日朝の間で打開できない理由だと思う」と述べ、官房副長官として永住帰国への方針転換を主導した安倍氏の対応に問題があったとの認識を示した。
 加藤氏は「(戻していれば現状のようには)ならなかった。『また来てください』と何度も何度も(両国間を)交流していた。一回返すと平壌は殺してしまうんじゃないかと(言われたが)、そこが(安倍氏らとの)外交感覚の差だ。そんなことができるはずがない」と述べた。 


こんな方が総理候補だったなんてあきれるばかりですね。



山形県民の方、次回はよ〜く考えてください。

安倍さんの事がきらいなマスコミはこの事をあまり取り上げないようですね。
安倍内閣の事はあれだけ失言探しをしていたのにもかかわらず。
山拓さんも、この方もどうしようもないですね。

民主党にもトンデモ人はいますね。

責任者自らが「民主党に政権担当能力がない」なんて公言していましたし
その発言に対して幹部も「辞任要求」でなく、「慰留」していましたから。
マスコミの中では無かった事にされているのでしょうか?

そいうえば小沢さんの資金問題はあれで幕引きしちゃったのでしょうか?
[PR]

  by hiro0815x | 2008-07-08 13:01

宮城晴美さんの苦悩 母の遺言(上)

沖縄県民斯ク戦ヘリのTakashiさんのところで紹介されていましたが、全文を紹介したくてTakashiさんに頂きました。

沖縄タイムス 1995年(平成7年) 6月22日 木曜日

母の遺言 (上)

証言の独り歩きに苦悩

手記の書き直し託される

宮城 晴美

その年、母は座間味島の「集団自決者」の名簿を取り出し、一人ひとりの屋号、亡くなった場所、使用した"武器"、遺体を収容したときの状況など、これから自分が話すことのすべて記録するよう、娘の私に指示してきた。

座間味島の地図を広け、「自決者」のマップをつくりながら、母は知りうる限りの情報を私に提供し、そして一冊のノートを託したのである。

元号は変わっても・・・

それから間もなく、元気よく一週間の旅行に出かけたものの、母は帰ってきてから体の不調を訴えるようになり、入院後、とうとう永遠に帰らぬ人となってしまった。

一九九〇年(平成二年)十二月六日であった。

母の死後、遺品を整理しているなかで、日記帳の中から一枚のメモ用紙を見つけた。前年の一月七日、つまり昭和天皇が亡くなったその日に書かれたものであった。

「静かに更けて行く昭和の時代も、後二十分で終わりを告げようとしている。

本当に激動の時代であった。たとえ元号は変わっても、戦争への思いは変わらないであろう。

新元号は『平成』、どんな時代になるのだろう。子や孫のために、平和な世の中になってほしい」

戦後、座間味島の「集団自決」の語りべとして、戦前の皇民化教育と「集団自決」のかかわりを、戦争の聞き取り調整のため島を訪れた無数の人たちに説いてきた母。

それだけに、私にも言い続けてきた「昭和=戦争="集団自決"」という、戦前の天皇制をベースに繰り広げられた悲惨な戦争の図式を、母は「昭和」の時代の終わりとともに、何らかのかたちで、自身の"思い"として留めたかったのではないだろうか。

"事実"を綴ったノート

そして、私に托された一冊のノート。それは字数にして四百字詰め原稿用紙の約百枚におよぶもので、母の戦争体験を日を追って詳しく綴ったものであった。

母は「いずれ時機を見計らって発表しなさい。でも、これはあくまでも個人の体験なので発表するときには、誤解がないよう、客観的な時代背景を加えるように」と言葉を添えて手渡したのである。

ただ、母はこれまでに座間味島における自分の戦争体験を、宮城初枝の実名で二度発表している。

まず、六三年(昭和三十八年)発行の『家の光』四月号に、体験実話の懸賞で入選した作品「沖縄戦最後の日」が掲載されたこと。それから五年後の六八年に発行された『悲劇の座間味島−沖縄敗戦秘録』に「血ぬられた座間味島」と題して体験手記を載せたことである。

ではなぜ、すでに発表した手記をあらためて書き直す必要があったのかということになるが、じつは、母にとっては"不本意"な内容がこれまでの手記に含まれていたからである。

「"不本意"な内容」、それこそが「集団自決」の隊長命令説の根拠となったものであった。

自責の念にかられる

とくに、『悲劇の座間味島』に記載された「住民は男女をとわず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」と梅澤部隊長から命令が出されたというくだりが、『沖縄県史10 沖縄戦記録』をはじめとして、多くの書籍や記録のなかで使われるようになり、その部分だけが切り取られて独り歩きをしだしたことに母の苦悩があった。

あげくは、その隊長命令説を覆そうと躍起になるあまり、曽野綾子氏に代表される、「自決者」を崇高な犠牲的精神の持ち主としてまつりあげる人々が出てきたとなると、母の気持ちが穏やかであるはずがなかった。

そしてもう一つの"不本意な理由、それは、自分の証言で「梅澤部隊長」個人を、戦後、社会的に葬ってしまったという自責の念であった。

これか最も大きい理由であったのかもしれない。

(沖縄女性史研究家)

◇みやぎ・はるみ 一九四九年 座間味生まれ。雑誌編集者を経て、フリーライターになる。

集団自決を中心とした戦争体験を追いながら、女性史とのかかわりを調査。

九〇年から、那覇市で女性史編さん事業にたずさわる。
[PR]

  by hiro0815x | 2008-07-08 12:39

SEM SKIN - DESIGN by SEM EXE