宮城晴美さんの苦悩 母の遺言(中)

沖縄県民斯ク戦ヘリのTakashiさんのところで紹介されていましたが、全文を紹介したくてTakashiさんに頂きました。

沖縄タイムス 1995年(平成7年) 6月23日 金曜日

母の遺言 (中)

切り取られた"自決命令"

「玉砕」は島民の申し出

援護法意識した「軍命」証言

宮城 晴美

母は、どうして座間味島の「集団自決」が隊長の命令だと書かなければならなかったにか、その真相について私に語りだしたのは、確か一九七七年(昭和五十二年)だったと思う。戦没者の三十三回忌、いわゆる「ウワイスーコー」と呼ばれる死者のお祝いを意味した最後の法事があると私は聞き、「島の人は何を孝えているのだろう」という気持ちから座間味島の取材に出かけたときのことである。

「援護法」とのはざまで

話は一九五六年(昭和三十一)にさかのぼった。

沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座間味村では一九五三年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから二年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。

この「援護法」は、軍人・軍属を対象に適用されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。

それを村当局は、隊長の命令で「自決」が行われており、亡くなった人は「戦闘協力者」として、遺族に年金を支払うべきであると主張したというのである。

つまり、国のシステムから考えれば、一般住民に対して「勝手に」死んだ者には補償がなされず、軍とのかかわりで死んだ者にだけ補償されるといういう論理を、住民たちは逆手にとったことになろうか。

その「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。

母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小きな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。

それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の"目"を意識せざるを得なかった。

軍と運命を共に

座間味島は一九〇一年(明治三十四)に沖縄ではじめてのカツオ漁業をスタートさせた島で、それが軌道に乗り出した明治末期から子どもたちをどんどん上級学校に送り出し、教育熱は県内でも旺盛な地域であった。それだけ、皇民化教育を受け入れる土壌が整えられていったといえるだろう。

一九四四年(昭和十九)九月、この島に日本軍か駐屯するようになったころから、住民は兵隊たちと運命を共にすることになる。

島は特攻艦艇(敵艦に体当たりするための爆弾を積んだ一人乗りのベニヤボート)の秘密基地と化し、漁のため小舟を出すにも軍の許可証を必要とした。

日本軍の駐屯で、ほとんどの家が兵隊の宿舎となり、住民たちは裏座敷に住みながらも、兵隊との交流は欠かせないものになっていた。その交流の中から「戦陣訓」を学び、そして在郷軍人(退役した地元出身の軍人)からは、中国戦線で日本軍が中国人を相手に行った残虐な仕打ちが伝えられ、敵につかまったときの惨めさが語られた。

忠魂碑の前に

一九四五年(昭和二十年)三月ニ十五日、三日前から続いた空襲に代わって、島は艦砲射撃の轟音(ごうおん)に包みこまれる。方々で火の手かあがり、住民は壕の中に隠れていても、いつ砲弾が飛び込んでくるか、ただおびえているだけであった。

そんな夜おそく、「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令が届いたのである。

伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している。有力者の一人から一緒に来るようにいわれ、意味もわからないまま、四人についていったのである。

有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最後のときがきた。

若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんばかりのショックを受けていた。

◇みやぎ・はるみ 一九四九年 座間味生まれ。雑誌編集者を経て、フリーライターになる。

集団自決を中心とした戦争体験を追いながら、女性史とのかかわりを調査。

九〇年から、那覇市で女性史編さん事業にたずさわる。
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  by hiro0815x | 2008-07-09 12:41

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