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宮城晴美さんの苦悩 母の遺言(下)

沖縄県民斯ク戦ヘリのTakashiさんのところで紹介されていましたが、全文を紹介したくてTakashiさんに頂きました。

沖縄タイムス 1995年(平成7年) 6月24日 土曜日

「集団自決」時の社会背景

戦争は「終戦」で終わらない

島の有力者たちがやってはきたものの、いつ上陸してくるか知れない米軍を相手に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返していったが、女子青年団長であった母は、どうせ助からないのだから、死ね前に仲間たちと軍の弾薬運びの手伝いをしようと、有力者たちとは別行動をとることになった。その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って「忠魂碑前に集まるよう」呼びかけたのである。

軍国主義の象徴

伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に「自決」とか「玉砕」という言葉を聞いていない。

「忠魂碑」の名が出たことが、住民たちを「玉砕思想」へと導いたといってもいいだろう。

海を一面に見下ろせる場所に建てられた忠魂碑は、紀元二六〇〇年(昭和十五年=神武天皇の即位以来二千六百年にあたるという)を記念して、座間味村の在郷軍人会、青年団を中心に一九四二年(昭和十七年)に建立されたものである。

この忠魂碑というのは、「天皇に忠節・忠義を尽くして戦死した者の忠君愛国の魂を慰め、その事跡を顕影する」(『沖縄大百科事典』)ものといわれ、靖国神社と密接なつながりをもち、日本軍国主義思想のシンボルといわれたものであった。

太平洋戦争の開戦日(一九四一年十一月八日)を記念して毎月八日に行われた「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」の座間味島での儀式の場所であった。

これは住民の戦意高揚をはかるのが目的で、儀式の内容は、宮城遙拝「君が代」「海ゆかば」斉唱、村の有力者や在郷軍人会による、戦勝にむけての訓示などであった。

元隊長との再開

この場所に集まれというのだから、住民としてはすぐさま「自決」と結びつけざるを得なかった。結果的には、住民は激しい艦砲射撃のため、忠魂碑に集まることができず、それぞれの壕で一夜を明かしたものの、翌日、上陸した米軍を見た住民がパニックを起こして、家族同士の殺し合いが始まったのである。

それは「生きて捕虜になるよりは、死んだほうがいい」という戦陣訓と、「敵につかまると女は強姦され、男は八つ製きにして殺される」という、皇民化教育や在郷軍人会の教えによるものであった。

母とともに、梅澤隊長のもとを引き揚げた四人全員が「集団自決」で亡くなってしまったため、戦後、母が"証言台"に立たされたのもやむを得ないことであった。

一九八〇年(昭和五十五年)の暮れ、母は梅澤元隊長と那覇市内で再会した。

本土の週刊誌に梅澤隊長が自決を命令したという記事が出て以来、彼の戦後の生活が惨憺(さんたん)たるものであるということを、島を訪れた元日本兵から聞かされていた母は、せめて自分か生きているうちに、ほんとのことを伝えたいと思っていたからである。

皇民化教育の本質

その後の彼の行動については、あえてここでは触れないことにしよう。しかし、一つだけ言わせていただくとしたら、梅澤元隊長が戦後なお、軍人の体質をそのまま持ちつづけている人であることに変わりはない、ということである。

母は、私がモノ書きとして生活するようになってからは、いつも思い出したように言いつづけたことがあった。

「いまは事実を書かなくてもいい。でもウソは絶対に書いてはいけない」ということ。

そしてもう一つは、「『集団自決』を論ずるとき、誰が命令したか個人を特定することにこだわっていると皇民化教育の本質が見えなくなってしまう。当時の社会背景をしっかりおさえなさい」と。

母は「事実」を元隊長に話したことで島の人との間に軋轢(あつれき)が生じ、悩み苦しんだあけくとうとう他界してしまった。母の死を通して、戦争というのが決して「終戦」でおわるものではないことをつくづく思い知らされている。

(沖縄女性史研究家)

  by hiro0815x | 2008-07-10 12:48

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